病としての隠喩

広島の少女殺人事件の容疑者が取り調べの序盤で「悪魔が自分の中に入ってきた」と供述したことがずいぶんと叩かれていたが、これは個人の性質どうこうもあるけど、いろいろな面で文化の問題だよな、という気がする。
ひとつ思うのが、これは翻訳の悲劇っぽいということである。この容疑者はスペイン語で「悪魔」を意味する単語を口にしていると思うし、実際言い逃れにしか聞こえない調子で語っているのかもしれないのだけれど、隠喩として扱わずに額面通りに訳してしまうのは評価が分かれる気がする。日本語マスコミでは「魔が差した」が「カッとなってやってしまった今は反省している」と大して変わらない重みで使われていることを考えれば、文化的な重みを考えて訳語をつけなければフェアじゃないと思われ。
それと、世間から隔離されまくりな日本の拘置・矯正制度はこういう事件になるとやはり問題点が際立つな、と。拘置される人間は直接的な晒し者になる危険からはある程度守られるわけだけれど(でも隠し撮りはされる)、反撃の手段がない間に供述は針小棒大になってるわ近所の人間がマスコミに卒業文集売るわで下手に映像で晒されるよりはるかに不利益を被りかねないわけで。カメラを現場に入れるのは犯罪者の評価を歪めるおそれがある点(美人が不当に同情集めまくりとか)で相当にリスキーではあるのだけれど、映像はメディアの偏向も明らかにしてしまう面もあるので、公正さはむしろ担保されるケースも出てくるだろうから、リスクと相談しながらの現場の公開がひとつの選択肢として検討されていくのは自然なことでは。