野に咲く花の名前は知らない

Togetter - まとめ「専門学校ゲーム科新入生が堀井雄二の名を一人も知らなかった」
ライター堀井雄二はいかにしてゲームクリエイター堀井雄二になったのか? - Culture Vulture
おっさんゲーマーであるところの編集人にとって、「ゲームクリエイター」という人種はそもそも「まっとうな学業もしくは職業からのドロップアウツ、もしくは企業の中のアウトサイダーが人生の逆転を成し遂げて就いた職業」であり、それゆえにゲーム誌の誌面を飾る彼らの姿が(編集人を含めた)スクールカーストの下位に属する、おおむね人生の逆転など信じられない少年ナードたちを魅了したのだと思う。おっさんゲーマーたちが懐かしむファミコン世代、いやさマイコン世代ゲームクリエイターの多くは、人生においてなかなかゲーム開発にたどり着いていないのだ。

堀井雄二 『ドラゴンクエスト
既に多くのブログ等で触れられているように、フリーライター出身。漫画家志望でもあった。
宮本茂 『スーパーマリオブラザーズ
工業デザイナーとして任天堂に入社したが、あまりデザインの仕事がなくポスター書きやゲーセンの飾り付けをする羽目に。横井軍平氏に誘われた『ドンキーコング』開発からゲームクリエーターへ。
襟川陽一 『信長の野望』・コーエー創業者
染料問屋の若旦那。レンタルレコード屋などの業種を経て、恵子夫人からMZ-80Kをプレゼントされたことをきっかけにゲーム開発に参入。
木屋善夫 『ドラゴンスレイヤー
自動車整備士として働くかたわら、趣味で触っていたPC-6001で『ドラスレ』を開発。通っていたパソコン店(日本ファルコム)に持ち込んで販売開始。
仁井谷正充 『ルナーボール』・コンパイル創業者
広島大理学部に7年在籍して中退後、学習塾経営・広島電鉄車掌などを経てコンパイル設立。

「ゲーム業界」というものが存在しなかった時代だから当たり前といえば当たり前なのだけれど、彼らはみな「異能の人」であった。そしてあの頃のゲームというのはそんなエイリアンである彼らが一人もしくは身の回りだけで作り上げられるものであった。
時は移り、爛熟し巨大化したゲームのほんの一部を担うために、あえてその道を進む若者たちが堀井雄二を知ったとして、何の助けになるというのだろう。若者たちのの目指す先のどこにも、おそらく堀井雄二はいない。彼らと同じ年頃の堀井雄二の目指す先に、ゲーム作りなんてなかったのと同じように。