「エルサレム」を持たない日本

編集人の勤め先は比較的大きな通りに面していることもあり、左っぽい団体の方々と右っぽい団体の方々の双方が賑やかに音楽を響かせて付近をご通行になるんですが、特に左方向の方々の中にマイクで反戦メッセージを一席ぶった後にやおら生歌で歌い出す方々がいらっしゃいまして、毎度毎度腰が砕けてダメージ甚大というか(打ち合わせ中だとさらに破壊力抜群)、逆に否が応でも注意を集める「歌」というものの威力を思い知らされるわけです。
ところが、その曲目を考えてみると、右も左もあまりメジャーな曲というものを持たないんですね。右方面は一応軍歌や御詠歌というジャンルがあるのでレパートリーとしては揃っているけれど、絶対の定番曲というのが意外になくて、不思議なことに国歌たる「君が代」をかけるDJは皆無ですよね、右方面(街宣右翼の内情というのは別の話なんで置いとくとして)。左方面に至ってはスタンダードが皆無で、前述の生歌の方々はこれ自作じゃねぇかという脱力感たっぷりで出所不明な曲を使っていらっしゃる。
英国の国民的な歌謡に「エルサレム」という歌があるんですけど、この歌の立ち位置が少し面白くて、歌詞*1を見ると愛国的は愛国的ですが、今は歌われない第6節に「スコットランド人をやっつけろ」と書いてある国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」やもっと過激な「ルール・ブリタニア」と比べると拒否率が低いんで、広く歌える国民歌として受け皿的に機能しているらしいんですな(エマーソン・レイク&パーマーとかロックやポップのカヴァーも多い)。日本は国歌をめぐってこれだけモメる国なんだから、左も右も「エルサレム」みたいな拒否率の低い、スタンダードになりうる曲を作るなり発掘するなりすりゃ良かった気がするんですが、その気配が全くないところがまた日本の特殊と思われるところで。
日本に「エルサレム」的な国民歌がいまいち育ってこなかった理由は、ひとつに移動が不自由で「民謡」以上の流行歌が生まれにくかった江戸時代からの近代化が急すぎたせいで、歌が政治的に機能する間もなく第2次大戦まで行ってしまった点ですかね。明治から大正のヨーロッパ音楽と邦楽の融合が始まったあたりで何か「定番」が出来ていれば、敗戦後も歌い継がれる健全な愛国歌になっていた可能性はかなりあると思えるだけに、滝廉太郎がもうちょい長生きしてればどうだったかなと空想して見たり。ま、そもそもゲーム脳の話を見ても分かるように、カウンターとなる存在が出てくると何でも敵だとみなして思考停止しがちなメンタリティが一番問題なんでしょうが。
村上春樹が「上を向いて歩こう」を準国歌にしたらどうかというアイデアをエッセイに書いていたけれど、今からでも左右の方々はお互いを代表する穏健なメロディを発掘してスタンスを示してみるのも悪くないんじゃなかろうか。その結果として「浜崎あゆみを歌いながら団交する春闘」とか「氷川きよしエンドレスの街宣車」とかが出現しても責任持たないけど。

*1:やま氏のPythonology Todayより