無知のかたち 〜 アレクサンドル・ソクーロフ『太陽』

先日見に行きましたが銀座シネパトスは午後8時からの最終回にもかかわらず立ち見が出る盛況。客層で一番多いのはサブカルっぽい青年ながら、お年寄りや外国人もチラホラ。心配された黒い車とかは今のところ来てない模様。
おそらく大半の観客は、昭和天皇という題材からしてこの映画に対し高度に政治的なもの、例えば保守的な人々の価値観を突き崩すような過激な手法を期待して見に来るのではないかと思いますが(劇場の外に足立正生ソクーロフの対談とか貼ってあるしねえ)、その期待は裏切られると言ってよいでしょう。一言で言って、この映画は政治的にそれほど巧妙でもないですし、ある意味では知的でもありません。軍部や戦時外交の抱えた諸問題に対して個々に答えを出そうとしている部分はほとんどない上、それ以前の問題として「史実らしさ」というものがこの映画では全く重視されていないので。
端的にこの映画の本質を物語っているのはアメリカに関する描写の粗っぽさでしょう。昭和天皇と日本のディテールについては綿密に描いているソクーロフが、アメリカ人の行動についてはリアリティ一切無視で宇宙人的に仕立てているのは、ロシア人であるソクーロフアメリカ人を「がんばっても理解し得ないもの」として描くことによって、映画に登場する人物たち、そして観客の中の、昭和天皇に対する「無知」をあぶり出す狙いがあったのでは。劇中の侍従や閣僚たちが天皇の悩みに対して何ら助けができないように、見る観客もまた「じゃあ昭和天皇に期待されていたことって何だったのよ」と自問せずにはいられないわけで。
この歴史的に描きすぎないソクーロフの戦術は、昭和天皇という題材に対して実に正しかったように思います。奇しくもこの映画の日本公開直前に出てきた「富田メモ」が示すように、今も昔も日本人がいかに天皇に対して「あいまい」な期待をかけてきたかを描くには、あれがベストだったのではないかと。この映画を見ても天皇について賢くはならないと思いますが、日本人について賢くなることはできるかもしれないですな。

以下、ちょっとしたメモ。